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架空インタビュー
”奥澤明裕に聞く「星に願いを」のひみつ”



インタビュー・中村寛

中村(以下N)・今日はお忙しいところありがとうございます。

奥澤(以下O)・その意味が判る時がきっとくる。

N・早速ですが質問です。なぜタイトルが「星に願いを」なんですか?

O・別に深い意味はないんですよ。
 ただ、ああいう内容でああいった可愛いというかメルヒェンっぽいタイトルが欲しかっただけで。
 内容との論理的な整合性は全くありません。
 だから「星」がなにかを意味していると か一体何に「願う」のかという具体的なことはなんにもないんです。

N・なるほど。ではあの女の子の顔は先天的なものなのですか?

O・設定上は先天的なものなんですよね。
 絵コンテの第2稿まではその辺のことが書いてあるんですけど。
 赤ん坊が「生産」される過程でああいうのができちゃってそれを大量に廃棄するってシーンがあったんですけど。
 でも要はあの女の子がああいう姿をしているということが重要なのであって先天的か後天的かはそれほど重要じゃないです。

N・でもそれはかなりグロテスクだと思うんですけどそれはそういった意図で?

O・いや、それはないですけど。グロって嫌いだし。本篇でもグロって表現はしてないと思いますけど。

N・でも死体とか一杯でてきたし………。

O・血を描くってのはある人間の意志として他者に対してそのような感情を持つと言うことの表現として描いているのであっていわゆるスプラッタとかホラー物のアニメで出てくる血とは全く異なる筈です。
 それにやる以上はある程度はやらなければ意味がないというかやらない方がましだと思うし。宮崎駿様も昔雑誌のインタビューでそんなこと云ってました。中途半端に血を出すんだったら綺麗事で済ましちゃった方が余程いいと思います。

N・血の事はそれくらいにして次は舞台設定に就いて伺いたいんですがあの地下都市に就いてなんですけど。

O・地下って言う明確な設定はないです。上映会のアンケートでも元ネタを指摘した人もいたけど直接的な元ネタは諸星大二郎の『浸食惑星』なんですけど、コンテの第2稿までは普通の街で、でもそれじゃぁ作画が大変だからその街に蓋しちゃったわけです。そうすれば街のフカン描かなくっていいし。
 最初のコンテではロボットの見た目とか、ロボットのFollowで街のフカンのBG動画って一杯あったんで。あのコンテは描いてる途中で不可能だと思いました。でもその方が途中で挫折してやめただろうから却って楽だったかも。
 ちなみに諸星大二郎って言ったら最初のコンテではかなりパクってて昔の短編集読み返すとこんなとこまで使ってたのかと感動しました。いや、意識しないで使ってるからヤバいんですけど。今でも(笑)

N・するとあの街にもそれほどの意味はないって事ですか?

O・作画を楽にするという以上の意味はありません。

N・ではあの窓の外はどういったものなんですか?人が沢山落ちてゆきますけど。

O・あれは隙間ってだけのことで街に蓋をしたときにそれだけじゃ寂しいから絵的なイメージでつくっちゃっただけです。
 人が落ちてゆくというのは主人公の女の子みたいにおかしくなって窓を破っちゃってそれで絶望の余り飛び降りてしまったということです。それとあの窓の外はあそこに住んでる人達には周知の事実で別に隠されてることじゃないんですよね。勿論あの女の子もそれを知っていたしだからこそ八つ当たりをして窓を割ったんです。
 天井に空が映ってるからってみんなそれを本物と思ってるわけじゃなくて低い天井のところに一生居なきゃならないんじゃ息が詰まるからって空を映してるんであの社会は極度な管理社会で逆に言えば結構福祉とかしっかりしてるし綺麗事や建前はそれはそれで通用してると思います。
 別に暗黒の未来じゃないです。
N・先ほどの質問にも関連しますが主人公の顔ってどうしてあぁなんですか?

O・それはあの街の人達の顔とも関係してきて彼らは我々とは明らかに違うし我々の価値観からいえば彼らは何等の正当性もなく間違っているんですけどただそれを間違ってると見る我々が何の抵抗もなく感情移入し得るような形で主人公を作りたくなくてつまり主人公を誰が見ても正しいという立場には立たせたくはなかったって事で間違っている彼らを見ている主人公も我々の価値観からいえば正しくないって事をやりたかったんです。
 要するに主人公を正義の味方にしないって事ですかね。
 だから判りづらいのかもしれませんが。
 普段我々が世の中がどうのこうのって云ったって実はそう云ってる我々も正しくないことは明らかだからそれはそういう関係なんです。ついでに云えばあの女の子は街の人達に憧れててあの仲間に入りたいと思ってるのであって別に社会に対して抵抗している訳でも反逆している訳でもないんですよね。
 登場シーンで寝ているのはその前に後で同じ事があるように街の人達に無表情で見つめられて帰ってきて泣き寝入りしているのであってその後、目が覚めてまた性懲りもなく街へ行く訳です。最初部屋の中で水を飲んだ後部屋の扉を見つめるあたりはその辺のことを示していたつもりだったんですが。
 だからあの女の子は誰よりも体制に従順でありあの街の連中を愛しているとも云えますね。

N・じゃぁ、次にロボットですけどあのデザインってどういう処からきたんですか?

O・あのメカは以前『営繕マン』をつくった中村先生のボツになった作品のメカがあってそれはもっと丸い『マクロス』に出てきそうなメカだったんですがそれを私がらくがきしているうちにああなっちゃって。実は『稲毛にて』に出てくるメカも、元は一緒です。

N・試作の軍事用ロボットなんですよね。どうして途中で暴走するんですか?

O・最初っから失敗作だったって設定ではありますけど。コンテの第1稿ではその辺の説明があったんですが。整備しているとき頭脳部分になんかどろどろのゲル状のものが詰まっててそこに整備兵のあの腕から管みたいなのがのびてぐるぐるかき混ぜるとロボットが異常な反応をするとか。
暴走って云うより逃げ出したって感じですかね。泣きながら。戦闘シーンも逃げてるだけでそれほど応戦してないし。

N・女の子とロボットの感情をシンクロさせてたみたいでしたけど。

O・ロボットに関しては機能すべきだったものが機能しなくなったって云うありきたりなことなんですけど女の子についてはそうあるべきであるものがそうではなくなったって事で同じと云うことにしておいてください。

N・そうですか。それであの街の人達の表情なんですけどどうして無表情というかああいう表情なんですか?それと女の子が窓を割った後に出てくる3人の男ですけど。

O・さっきもちょっと云いましたが彼らは正しいんですよね、あの社会では。だからたとえば我々のこの社会でもそうですけど正しいからって決して美しい訳じゃないし社会的な正義にしてもそうだしそれは具体的に絵にすればああいう事なんじゃないかって思って。
 だからこそあの女の子はあの街に憧れたんだしそれはネクタイをしてない我々がネクタイをしてる人に自分たちは堅気だって顔されたらそんな筈はないと思いつつそうかなって思っちゃうのとおんなじで。
 モブシーンの中に頭に傷を負った赤ん坊が出てきますがあれは別に何らかの手術を受けたとか云うんじゃなくて、あれは母親が子供を抱いていたらずるっと床に落っことしちゃってその時にできた傷を手当したものです。なんか誤解した人がいたみたいですが。
 それから女の子が窓を割った後に出てくる3人の男だけどまぁああいう状態で窓割っちゃったから誰か出てこないとおかしいから出しただけで流れで出しちゃったから扱いに苦労しちゃって結局最後で殺しちゃったけどコンテの第3稿ではラストシーンまで出てきて女の子が屋根の上で呆然としているとその後ろにぼろぼろの2人が立ってて終わりって云うんでしたが。

N・最後って云えばあのラストシーンは最後の最後まで決まらなかったそうですね。

O・ラストシーンって云うか、本当に最後の最後のカットをどうしようかなって迷ってしまって。どうもあっさり終わっちゃうからなんとかしたくて、結局ロボットの目ナメPANUPと丸が上昇するカットを付け足しただけになっちゃったんですけどそれでも前よりはましになったと思います。
 女の子を殺してしまえばなんとなくラストっぽくなるとは判ってたんですけどそれだけはやりたくなかったんで。でも今考えるとあの女の子は確かにあの街の崩壊を願ったに違いないからその報いで死ぬべきだったのかも。
 あの丸の上昇は余韻を持たせるのと頭で丸の下降をやったから尻に上昇をやればまとまるかなと思ったけど甘かったです。あのカットを思いついたのが既に撮影に入ってた時で古橋様も呆れてましたが。

N・なるほど。内容に就いては大体判りました。
 次に制作過程について伺いたいんですが。ある資料によると製作開始は1983年とありますが。

O・企画はそうですけど本格的に製作を開始したのは84年の6月頃です。
 その時やったアニメーション研究会連合第7回上映会に『長距離走者の孤独』という習作を出して次の作品はちょっと長くてお話があってギャグじゃないのをやりたいなと思った時からですかね。それから半年くらいでお話を考えて4ヶ月くらいでコンテ描いて残りの2ヶ月でキャラ表と美術設定つくってほぼ1年後の85年の7月から作画に入りました。

N・作画といえば動画用紙のサイズがバラバラだったとか。

O・基本的にB5の計算用紙なんですけど作画始めた頃もまだ手探りでしたしね。
 途中で中大がB6サイズで動画を描いてるって聞いて作業の後半でヌリの大変なところはB6でやりました。実際楽でした。
 それからKEIO ANIMATION FILMでは3つ穴タップで市販の動画用紙を使ってたから柴様にはB5のフレーム渡して同様に3つ穴でやってもらったのですが鼓様はスタンダードで描いてきたのでそれでサイズの種類が増えてしまいました。でも撮影時スタンダードを押さえられるガラスがなくて1カットだけ寄りサイズで撮っちゃって爆発が切れちゃったのがあって申し訳ありません。
 なんでKEIO ANIMATION FILMに2つ穴でやってもらわなかったのかというと実は2つ穴のパンチには穴の規格が2種類あるらしいのと2つ穴タップを自作してくれとは云えなかったからです。

N・あの色は色鉛筆で塗ったんだそうですけど。

O・そうです。色鉛筆は自主制作を始めた頃から彩色に使ってました。
 最初は力一杯塗っていたのですが長谷川亮一が軽く塗っていてそれをフィルムで見たときいい感じだったのでそれからは力を抜いて塗るようにしました。でも『星に願いを』彩色作業中にそうして塗った昔のカットを見たらちょっとこの作品は違うかなと思って塗り直しました。全体の半分くらい直しましたか。だからあの色は色鉛筆の、しかも2度塗りなんです。
 塗り直さなかったらもっと早く完成していたことは云うまでもないのですが。
 セルで塗った方が早いんじゃないのとか云われたこともありましたが(笑)。

N・本当に予告した87年に完成させるつもりだったんですか?

O・1年で原画1年で動画1年で仕上げというつもりだったのですが。作画に入ったときは4人も作画の人がいたから可能だと思いました。事実私の担当シーンはそのスケジュール通りに進みましたし。仕上げの読みは甘かったと思いますが作画に関してはいけたと今でも思ってますよ。
 基本的に500カットを奥澤長谷川小野口の3人で分けて中村先生に手伝ってもらうという体制で、だから最初の3人のうち1人が1カットも私に渡さずに消えたときには気が遠くなりました。そいつ、なかなかつかまらなくて大晦日に電話かけたりして。あいつからしたら亡霊から電話がかかってきたようなもんだろうなぁ。
 中村先生も結局1カットしかやらなくて、卒論あげてから仕事に行くまでの間にかなりできるはずだったんだけど。結局やった1カットも私が全修しちゃったから面影残ってないです。
 長谷川は一通り動画まであげたのかな。トレスはほとんどやってなかったけど。あいつ、知らないうちに引っ越しちゃって、ある日忘れもしないペリカン便ででっかい箱が届いてそれが『星に願いを』のカットだった。
 あの頃は最低でしたね。あの遊映研があっという間に崩壊して毎日この世の無常と孤独感を噛み締めて生きてました。それが本来完成するはずの87年でした。

N・「男らしいぜ、辛い過去を自慢できる大人になれて(by IZUMIYA)」ってやつですね。ところで、KEIO ANIMATION FILMが制作に参加したのはいつ頃なんですか。

O・86年くらいですかね。思い返してみると柴様ともつきあい長いですね。
往復葉書がうちに来て当時のアニ研連の中村代表に住所を聞いたと書いてあって、『星に願いを』を手伝いたいという内容で。いい根性してるぜって思ったら本当にいい根性してました。
 手伝いたいと云ってきた人は何人かいましたがほんとに手伝ったのは彼らだけですから。それで稲毛の私の自宅まできてもらってそれまでにつくった作品があるというのでその場で見せてもらったのですがそれが『POWERD SUIT』でした。すごいから思わず長谷川を電話で呼びだして彼にも見せたくらいでした。それでその場で作打ちして戦闘シーンを押しつけてしまいました。コンテとはだいぶ違ったものになりましたが結果的にはそちらの方が良かったです。

N・それから就職して、どういう風に制作を続けたんですか?

O・仕事から帰ってから作業するだけじゃないですか。
 最初は実家から2時間かけて練馬まで通ってたので睡眠時間が3時間くらいしかとれませんでした。睡眠不足は仕事に行くとき、津田沼で始発に乗り換えて確実に座ってから眠るのと会社での居眠りでカバーしました。
 そのころは最初に逃げた奴のカットは動画のテストフィルムはあったからそれを使って未完成板と云うことにして収拾を図ろうかと思ってたけどある人に「完成させる気があるならそんなことはしない方がいい」といわれて一体、完成させたいのかどうなのか判らなくなってる自分に気がつきました。
 その分のカットの作画に入ったのは90年でしたか。もうその辺になると、完成するとかしないとかじゃなくて兎に角日々の作業をちゃんとやろうと、そう云う気持ちでした。

N・それでついに完成の日を迎えるわけですね。

O・撮影とか編集とか録音とかの絵以外の作業は古橋様に任せました。カメラはどうしても私が昔から使ってきたのを使いたかったからその辺で苦労してたみたいでしたが。「ZC1000の方が使いやすいのに」とか。
 でもこの作品は遊映研以来の恨み辛みがこもってるからそれが判ってるカメラでどうしても撮りたかったのです。
 でも綺麗に撮れたしほとんど『星に願いを』の作業と時を同じくしてSUPER8も息を引き取ったから偶然の一致とはいえ感慨深いものがありますね。あ、まだ生きてるのかな?
 編集は完全に古橋様に任せて私は後ろで腕を組んでにらんでました(笑)。録音もなんとかしたかったけどあれが精一杯でしたね。

N・で、1993年5月20日に完成したわけですけど、完成してどうですか?

O・ビデオも何度も見たけど、これほんとに俺がつくったのかなぁって思いました(笑)。あと結構面白いじゃんって(笑)。でも本当に20代これにかかりっきりでしたね。ほんと莫迦ですよね。でももう終わったことですから。あんまり過去のことには興味がなくって。ともすると10代の事すら忘れてますから。その頃からの友達もいませんしね。『星に願いを』でも友達沢山無くしたし(笑)。

N・どうも長い時間ありがとうございました。最後に一言。

O・質問を自分で考えて自分で答えるのは疲れるよ。



1994年3月3日 練馬区某所にて収録



と、これは当時書いたものなんですが今読み返してみるとなおさら無常観がこみ上げてきますね。
『星に願いを』自体、今見るとあまりに作画がひどすぎて見ていて辛いですし。
なんといってもその後友達を沢山無くしましたしね。


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